嫌いの観察力
味を言葉で伝えるのは難しい、という意見を今日人から聞いた。
曰く、綺麗な風景を言葉で表すよりもおいしい食べ物の味を言葉で表す方が難しいというのだ。
確かに。食レポなどで使われる語彙も、風景を言語化するときと比べて少々突飛で具体性に欠けるなぁと思う。
そこでふと、嫌いな食べ物のほうが言語化しやすいよなあと思った。
好きな食べ物よりも嫌いな食べ物のほうが、嫌いである理由が明確であることが多い気がする。
例えば。
好きな食べ物、唐揚げ。理由、おいしいから。に対して、
嫌いな食べ物、トマト。理由、皮と身の食感に対して中身の種はデロデロなのが気持ち悪い。酸味が強い上に独特の青臭さがあり、しかも…みたいな感じで、嫌いなものの方が些細に語るのは簡単なのだ。(私自身トマトが嫌いなわけではないですが)
もっと言えば、食べ物に限らず、あらゆる物事に対して好きよりも嫌いの方が言葉にすることは簡単なように思う。
好きなものは一度好きにカテゴライズされてしまえばそれ以上の好きの理由を考える必要がなくなってしまうからなのかも知れない。
嫌いなものはいつだって嫌いだ。そこにある限り心がざわついてしまうし、考えたくなくても確かな具体性を持って私に不快感を与えてくる。だからこそより細かく観察してしまうし、揚げ足を取るように些細なところまで汲み取ってしまう。
自分の場合、美術館で絵を見た時など、好みの絵を見つけたときに一度いい絵だなと思った後はその感情は持続することがない。3日も経たないうちに忘れてしまったりする。
対して、電車でたまたま座った席の足元に空の缶ビールがあったとする。その缶ビールはそこに存在する限り絶えず新鮮な不快感を私に与えてくる。
電車が揺れるたびに耳障りな音を発するかも知れないし、ビールの麦とアルコールの匂いを電車の中で嗅ぐのは不快であろう。
靴や裾に缶が触れたのならば誰が口を付けたかもわからない物体が自分に触れたことに対して不潔だ、と思うに違いない。
プラス方向かマイナス方向かを抜きにして、どちらの方が私の心を揺さぶったかで言えば、総量としては缶ビールの方が美術館にあるいい絵よりも私を感動させたことになってしまう。
本当に感動する絵に私がまだ出会ったことがないだけかも知れないけど。
物語も不快で嫌な事が起こるからこそ、そこを乗り越えた後に良さを感じたりする。"嫌い"が人に与えるパワーって相当すごいんだな。
嫌いな物を語る価値観で、好きな物を語る事ができるようになれたらいいのになと思います。